本当にそれは当たり前なのか
当たり前の語源は、中国から伝わった「当然」という言葉がそのまま当て字なった「当たり前」にある。「当たり前」とは、言うまでもない事柄や様子のことで、物事の考え方や捉え方が、世間一般的に広く共有されている状態を表しており、誰が考えても同様なこと当然なことが「当たり前」ということになる。
そこで今一度考えてみたい。これまで自分が感じてきた当たり前は本当に当然のことだったのだろうか。あるいはいつまでも当然であり続けるのだろうか、自分以外の人にとっても当然なことだろうか。
「太陽は毎日昇る」さすがに長い歴史を考えるとこれは当然と思えなくもない。もちろんこのことでさえ異を唱える人もいる。
「水はいつでも使える」干ばつなど異常気象はどこでもあり得ないことではない。あるいは途上国含め全世界で感じ方は様々かも知れない。
「両親、家族がそばにいる」いかにも日常的で当然の様でありながらいつまでもという訳にはいかない。ある時突然の別れもなくはない。
「不自由なく体が動く」これらもそうではないだろうか。
人はあることを当然と考えるとそのありがたみも感じることなく、無駄に過ごしたり消費したりする。それだけにそれが当然でなくなった時は失意や後悔の念に駆られる。もっと大事にしておけばよかった、出来るときにやっておけばよかった等々と。
当然を当然と考えず、今だけに与えられた恵と捉え、全てに感謝しながらその時を精一杯に生きていく。全てに感謝、当たり前に感謝して一日一生を生きる。「時間が経つのが早い」と感じるのは、公私ともども充実しているためか、もしくは老いて世の中のスピードについていけていないのか。前者でありたいが、これらもこの当然の捉え方やその上での生き方が大いに影響しているのではないだろうか。